昭和49年05月19日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
「金光様」を唱えさして頂く所に、金光様御取次の働きというものが、そこに現われるということだと思うです。生神金光大神様を唱える所に、もうそこに生神金光大神の働きが始まる。いわゆる御取次の働きが始まる。それを信ずる事が金光教です。金光様の御取次の働きと。今日私は御神前でパイナップルですね。果物のパイナップル。きれいなパイナップルに青々とした、上に葉っぱが付いてますね。あれとそれからパイナップルの葉の切って捨ててあるのと二つ頂いたんです。
ですからそのパイナップルは食べるものと、ですから葉っぱはいらないのです、実際は、いらないけれども葉っぱのないパイナップルなんて、もうちょっと値打ちがないですね。例えば果物屋に出ておる。もう葉っぱが少し枯れたのは切って捨ててあると、それは丁度熟して美味しいかも知れませんけれども、やはり青々とした葉っぱが付いていて初めて、パイナップルの値打ちがあるんです。
問題は値打ちのあるもの、値打ちのある信心を頂かなきゃいけないです。ただ「ご利益さえ頂けばもう何様でもええ」と言った様な信心は値打ちがない。折角頂くのですから、値打ちのある信心をさしてもらわにゃいけません。そこで私は今日思うてみたんですけれども、私共もう物心付く頃から「金光様」と言う事を唱える事を教えられた。勿論小学校へ参りますと今日は運動会だ、今日は遠足だという時には、もう必ず母がお賽銭とお初穂を、その時分はお初穂は十銭でした。お賽銭は一銭でした。
すると椛目から善導寺までの、ここには小さい筑後軌道というのが通ってましたから、それで往復します。それが確か二銭か三銭かじゃなかったでしょうか。そのお賽銭と軌道賃と、いわゆる汽車賃と、それからお初穂とを持たして必ずお願いに。試験があると言うては「そんなら早うお願いに参ってこい」と言う様なふうで、まあ言うならば信心の躾をされた訳でございます。
それでもその時分に、いわゆる金光様をとなえさせてもろうて、これが金光様のおかげだなあとは思う様な事は一つもなかったように思います。ただ考えてみると、旅行なら旅行無事で帰ってきたとか、試験ならしけんも無事に、けれどもなら大体私頭が悪いですから。神様に金光様の御取次を頂いたから、百点採ったと言った様な事は一遍もなかったように思うです。
いつも落第点と合格点のすれすれの様な所が一番多かったようです。それでも矢張り「金光様」は何時も唱え続けたし何時も御取次を頂いて、まあそうする事が当然の様に思わせて頂いて成長致しました。段々成長させて頂きましてお商売をさせて頂く様になっても、考えてみると随分おかげを受けておりますけれども、お願いしたからお願い通りのおかげを受けたと言う事は滅多にありませんでした。時折まあ本当に素晴らしいタイミングの中におかげを頂いた時なんか、まあ「はあおかげ」とこう思いますけども。
ほとんどはそうでありませんでした。まあ大きな意味でおかげを頂いとるに間違いないのですけれども、はっきりおかげと感じれるようなおかげは頂かなかった。それでも「金光大神様」は唱え続けてきた。高橋一郎という偉い先生がおられました。その先生の有名な言葉の中に、「御取次を頂いて起きてくる事、良い事悪い事皆良い」「御取次を頂かずして起きて来る事、良い事悪い事皆悪い」と言っておられます。
是はもう正しくそうです。ですから言うならば、私共はもう日々「生神金光大神様」を唱えさせて頂いて御取次を頂く。御取次を頂くと言う事は、勿論教会にきて御結界にお初穂包んでお願いをすると言う事が御取次を頂くと言う事ですけれども、そればかりじゃないと思う。そりゃもう便所の中からでもお風呂の中からでも、「生神金光大神様」を唱える所に、「金光大神は形がのうなったら来てくれという所に行ってやる」と仰る働きがある事を信ずる事が金光教です。
そこでなら金光大神に来て頂いて、働いて頂いとるに間違いないのですけれども、人間の目から見ると、それがおかげやらおかげでないやら何やら分からん。いや場合には願った事の反対になっておっても、それをおかげと信ずる事が信心です。私が今朝から頂いたお知らせはどう言う様な意味のことであろうか。成程パイナップルをこう、例えばお互い買います時にです。
同じ形のパイナップルを同じ値段であるならばです。やっぱり青い葉の付いたのを得るでしょうし、もう葉っぱの取れたのなんかは、とても買う気になりませんです。それは値打ちのあるものとないものだから、値打ちのあるものを矢張り取るのです。しかしその葉っぱは家に帰って食べる時には、切って捨てなければならないものなんです。けれどもその切って捨てなければならない様なものを、私は大事にして行くと言う事が、値打ちがある信心だと思うです。
「金光大神は形がのうなったら来てくれという所に行ってやる」と言う事を約束しておられるのですから、例えて言うなら私共子供の時になら、試験なら試験答案用紙に向って「金光様」を何回も何回も唱える。難しい問題の時には、何回も何回も唱える。それでいて、「はあおかげで思い出した」とか、違うとると思ったら合うとったと言った様なおかげやらは、先ず無かった様に思う。
それでも矢張り唱えた。唱えた所にはしかし今から考えてみると、「形がのうなっても、金光大神は来てくれという所に行ってやる」と仰る、その働きは受けておったと思うのです。それと是とを頂く。言うならば葉っぱと実の所とを一緒に頂くと言う事がです。いよいよ、金光大神御取次の働きが、そういう、例えば私の子供なら子供の時から、どれだけ「金光大神」を唱えたか判らない。そのどれ程唱えたか判らない「金光大神」が、形はのうなってもその場においでを頂いて、お働き下さっておるに違いはない。
そういう働きを大事にしてきた。お願いをしたけれどもお願い通りにならなっかったと言うおかげ。けれども目に見えないおかげを頂いておる事だけは事実として、それを大事にして来た所にです。段々それが積もり積もって力になる。それが積もり積もって力になって、それは打てば響くようなおかげを感じ、または頂けれる言うならば、夢にも思わなかった様なおかげの展開とはなって来たと私は思うです。
是は私自身の信心を思うて見るです。お願いしたばってん、おかげ頂ききらんじゃったと、そんな事絶対ないです。御取次を頂く限り絶対働きがある。けれども形の上に見えない、形の上におかげと思われない、いやむしろ反対の様な事になっておる場合すらもある。けれどもそれが金光大神御取次の働きとして頂かせて頂くことがです。愈々千回よりも万回と言う様に、沢山の数を言うなら、金光大神御取次の働きの場というものを身に受けて行くうちに私は力が付くと思うです。
私は昨日、今毎日日田から坂本さんと言う方が参ってきております。その方の名前は千の寿と書いてあるんです。恐らく是は「ちとせ」とか何か言うんじゃないでしょうか。毎朝参って見えます。その方の御取次させて頂いておったら、その方の名前と『千寿万力』と言う事を頂いた。千の寿に万の力と言うのです。お互いの場合はどうだろうか。例えば千の力を頂いてもうツー、一杯のおかげを頂いておる様な感じがします。いいや力はない力がないにも拘らず、おかげだけは頂いておるように思います。
お互いがね力を頂かなければいけません。そして万力と言う程しの、万の力を頂いておかげは押さえ目に押さえ目に、内輪に内輪に頂いて行く、こんな楽なことはないと思うです。万の力を頂いて言うならばです。万斤を持てる力を持っておる人が、千斤の物を持っても楽でしょう。所が千斤しか持てない人が、千百斤の物を持とうとするから、それこそ脂汗が出る様にある訳です。
言うならばおかげの頂き過ぎと言う事も、信心も出来んのにここまでのおかげを頂いてと言う場合は、非常に信心がきついです。骨が折れます。そりゃ場合によってはです。力はないですけれども、力以上のおかげを頂かなければならない、それこそ地団駄踏んで願わねばならない様な事がありますけれども、段々信心の稽古をさして頂いて、力を頂いて、そして言わば万力という程しの力を頂いて、千寿千寿とは千の寿と、千のおかげ位の所でです。それでいてゆとりのある。
有難い願わんでも頼まんでも、神様の方からおかげを下さるようなおかげ。必要なものが必要に応じて頂けれる様なおかげ。人間の幸せの条件というものがです。足ろうて来る。しかも私の幸せの条件に是が一つ欠けておりますから、是を下さいと言った様なものではなくて、そういう例えばゆとりのあるおかげを頂かせて頂くために、私共がどうでも万の力を頂きたい。その万の力というのが、私が今日申しました。金光大神が来てくれという所には来て下さるんだと信ずる事です。
例えば私の母がさあ遠足、なら早うちょっとお願いに行ってきなさい。御神米を頂いてきなさい。その御神米をちゃんと頂いて行きなさい。試験と言えば運動会と言えば、もう必ず善導寺の教会までお参りさせられた。また自分も参らなきゃ気が済まんという気がした。けれどもやっぱり御神米ば頂いて行っとったけんおかげ頂いたと言う様な思いを、実際子供の時にした事実は記憶がないです。
ただ参れと言われとったから参っておった。それはどう言う事かと言うと、母はお参りすればお参りするがたのおかげはあると信じておるからです母が。言うならば子供なりでも、御取次を頂いてお願いをすれば、御取次の働き金光大神のはたらきはそこにあると信じておるから、必ずお参りさしたんです。それが言わば千回も万回もです。おかげと感じれる事はなかったけれどもです。金光大神の御取次を頂いて、右と願って左となる。左と願って右となる。
言やあおかげはおかげか何じゃかんじゃ分からんのだけれどもです。それを信じてお参りさせた、母の信心は私の千回よりも万回、それを続けて繰り返して行くうちに、万の力にもなったんではないかとこう思うのです。だから私は力というのはね、目に見えないおかげをおかげと、私は言わば力になって行っておる様に思います。目に見えるおかげというのは、もうその場で帳消しになっとる。それには矢張り今日ここで頂きます「金光大神は形がのうなったら来てくれという所に行ってやる」と仰る。
それを信ずる事です。だから一回でも多く「金光大神」を唱えてお願いをする事です。お礼を申し上げる事です。金光大神はそのお礼を聞き届けて下さり、天地の親神様に御取次をして下さり、願えば願った事を天地の親神様に御取次をして下さる。そして願った事が願った通りになっていないにしてもです。その金光大神取次の働きというものは絶対のもだと信ずる事です。
人間のこの肉眼ではおかげと判らなかってもです。それがやはり千回よりも万回と重ねて行くうちに、目に見えない自分でも気が付かない程しの力になっておるです。万力の力、そして万の力を頂いて、千か二千ぐらいのおかげで、それでいて十分幸せを感じれれる、言うならおかげを頂かしてもろうたら、楽ですね。みんなは力はないのに、力以上のものを頂こうとする所に無理が行きます。
そして場合には金光大神の御取次を頂いたけれども、おかげ頂ききらじゃったと言うて、丸きり働きを頂いておらんかのような言い方やら、思い方をしたんでは、おかげにならん。私の母は、そこん所を信じておるから、都度都度にお願いにも出したと思うのです。その母の信ずる力が、私は言わば万の力になったんだと思います「金光大神は来てくれという所に行ってやる」という働きを言うなら金光大神御取次の働きをです。
願う所に金光大神の御取次があっておるんだと、そして私共の目には見えないけれども、根深い力のおかげを受けておるのです。一つ千寿万力のおかげを頂きたい。万の力を頂いて、そして内輪に内輪におかげを頂きたい。楽な信心です。言わば楽しい有難い勿体ない信心とはそういう信心だと思うです。その万の力を頂くためにはです。金光大神御取次の働きを信ずる事です。
右と願った事が左に例えばなっておっても、高橋先生のお言葉を引用すると、「御取次を頂いて起きて来る事、良い事悪い事皆良い」という力になって行くです。「御取次を頂かずして起きて来る事、良い事悪い事皆悪い」これはもう私は、いよいよそれは本当にそうだと実感さして頂いております。その実感こそが私の信心なのです。例えば試験に合格したい。お願いをした。金光大神の働きは十分あってるです。
所が合格できなかった。もうその時には愈々お願いをしただけの力というものは、金光大神取次の働きは頂いておるのです。ただ自分の思う様にならなかったというだけです。ですから「おかげを頂きました」とお礼を申し上げて行く所に、それが力にならない筈はありません。だからむしろお願いした事が反対になるような、そこを大事にする事こそが、金光様のご信心なんです。
言うならばパイナップルのそりゃ葉は食べられませんけれども、その葉を大事にさせて頂いてこそ、初めてそのパイナップルが値打ちがある様にです。ただ実の所だけ食べられるとこだけがおかげと言った様な考え方は、大変浅はかな考え方です。金光大神取次の働きをです。そのように信じて行けれる。なら子供の時からどれ程「金光大神」を唱えて来たか、御取次を頂いて来たか判りませんけれども、それもなら自分の思う様になったと思う事は差程にない程しに思うんですけれども。
それが全部今日の私の力になっておると言う事を思います。その力が万力です。ですから、おかげは願わんでも、内輪内輪に例えば願っておっても、それこそ願い以上のおかげ、夢にも思わない様なおかげの展開となって来るのです。まずは力を頂かにゃいけません。その力を頂くと言う事は、いらないと思う所をです。はあ是はおかげではないと思うような、そこを大事にして行くと言う事だと思いますね。
どうぞ。